SSブログ

昭和の夏休み~宮前と宮野前科学の間に見えるもの~ [地域]

ある雑誌にコラムを連載している方と話したことがある。その方の話では、「書き出し」さえ決まれば、文章は書けるのだそうだ。しかし、その「書き出し」をどうするかで悩み尽くすのだという。
「秩父ノスタルジー」も「書き出し」を悩んで2年近くが経過した。昔は気楽に書いていた気がする。しかし、「特定の地域の、特定年齢層にしか訴求しない、いつ更新されるかも解らないサイト」の累計ヒット数が20万を超え、月間2千~3千のヒットが定着するようになると、書くことの重さを意識するようになった。しかし幸いなことに、締め切りはない。書きたい時だけ書けば良い気楽さは、書かない事への言い訳作りに何とも適当だ。
「書き出し」を悩む理由はもう一つある。ここで話題としている「昭和の秩父」が急速に消えている現実だ。宮前の閉店と解体。キンカ堂や宝屋の解体。読書クラブの建て替え等々。・・・古くからある建物の前に佇み、じっと過去を思い返し、記憶の断片の糸を紡ぎ出す。その糸の一つ一つをそれこそ織物のように織りながら、頭の中で映像化し、文章に落とし込む。このサイト作成で行われる独特の作業が事実上困難になっている。
 しかし、記憶を蘇らせるのは、何も建物ばかりではない。たとえば、何かの折に中学校や高校を訪れた際、理科室に漂う薬品の臭いに、懐かしさとも違う不思議なタイムスリップ感を抱くことがある。夏の暑さも同じだ。内陸性気候特有の逃げ場のない暑さが一気に訪れるこの時期、ふと昭和の夏休みの記憶が映像となって目の前に現れる。それも、かなり鮮明に。

昭和の男の子の自転車は、すごく重かった。5段変速のスポーツ車で、ハンドルの右にスイッチがついている。このスイッチを入れると、荷台の下についているランプが点灯する。曲がろうとする方向にピアノの鍵盤のように並んだランプがチカチカ点灯するのが格好良かった。ランプの電源は乾電池で、荷台に電池ボックスがあった。ここに電池を入れるのも、車体が重くなる原因だった。最初のうちは、楽しくて何度もチカチカやっているが、そのうち接触が悪くなってつかなくなる。その前に、飽きてしまったり、無駄な電池を買うなと親に怒られたりして、ランプを使わなくなることが多かった。
むかしは、チェーンも良く外れた。坂の手前でギアを変える、カチャっと嫌な音がしてチェーンが外れる。FFタイプ(ペダルをこがなくても、変速できるタイプ)のギアは、一旦外れると厄介だと、給食の時間に誰かが話していた。夏の暑い日、友達の自転車のチェーンが外れると、みんなでチェーンをはめてあげた。手は汗と油にまみれた。最近の自転車は、あんなふうにチェーンは外れない。これも技術革新なのだろうか。

子供たちが夏休みに自転車で行く先は決まっている。何しろ荒川で泳いではいけない。学校で泳いで良い川は「浦山川と赤平川」と決まっていた。夏休みに入る前に、誰かが先生に聞く。「浦山川は、キャンプ場のあるとこだけど、赤平川ってどこですか?」先生は、「小鹿野のほうっていうか、この近くじゃない。何れにしろ、荒川では泳いではいけません。プールで泳いでください。学校か、市民プールです。」という。学校のプールは、学年の割り当てのある日と、全校誰もが行って良い日があった。全校のときに行くと、子供が多すぎて泳げたものではない。かといって、昭和の時代の市民プールは聖地公園の方で些か遠い(しかも、子供には深かった)。だから、こんな時は夏休みの自由研究をどうするかを考えて、秩父の街の中を自転車で走ることになる。
自由研究をどうしようか。と言って何か当てがある訳ではない。昆虫採集は手軽だが、奇抜でない。どうせやるなら、何か珍しいことをやりたい。夏休みの最初は野望だけが大きく膨らむ。とりあえず、宮前にでも行ってみるかと、自転車に乗る。店頭には、沢山の自転車が止めてある。昭和の夏休みの午後。宮前には、小学生から高校生までわんさと人が集まっていた。斜め右向かい(サイギンの反対側)には、プラモデル専門のおもちゃ屋があった。そこでも、安いプラモの品定めをしようとする子供の自転車が止まっていた。
宮前で軽く本をチェックする。そんな奇抜な自由研究を紹介する本があれば苦労しない。大体、奇抜なものは出版された時点で奇抜ではなくなる。だが、その辺の事情が子供にはわからない。自由研究の本を探して、結局見つからなくて諦めたのか、あるいは元々目的が違うのか。漫画本売り場には、立ち読み、すわり読みの小学生が大勢いる。
仕方ない。読書クラブに行ってみるか。何故か、宮前に行った後に読書クラブに行く。ここにも、沢山の自転車が止まっている。大袈裟でなく、読書クラブの店舗の端から端まで自転車が止まっていた。店内には漫画本を立ち読みする小学生、中学生が山のようにいる。昭和50年代の夏休み。この2つの本屋は、いつもこんな状態だった。
結局、自由研究のネタは見つからず仕舞い。読書クラブを出ると、道の反対側に「みふね」が見える。店頭では、ピンク色のウサギの人形が頭を左右に揺らしながら、太鼓を叩いている。その隣で、チンパンジーの人形が手に持ったシンバルを叩いている。店の前にいる子供がチンパンジーの頭を叩くと、人形は歯をむいて怒る。しばらくすると、チンパンジーは、またシンバルを叩き始める。これだけの単純な動作だが、なぜか笑えた。「みふね」の前にも、自転車が沢山止まっている。特に目的もなく、ふらっと「みふね」に立ち寄る。店の長く細い通路を奥に歩いていくと、プラモが山ほど売られている。昭和の子供にとっては、宝の山のようなお店だった。そういえば、「みふねの青券」が何枚かあったな。今度おもちゃを買うときには、忘れずに使わないと。そんなことが店を離れる前に頭をよぎる。
今の小学生が遊ぶおもちゃは、3DSとか、カードゲームとか、突き詰めて言えば「2次元」の遊びのような気がする。遊びは本来3次元のものだろう。今の遊び方で、空間認識力がつくのか少し心配になる。決して、大した仕組みではないのだが、パーフェクトボーリングやサッカーゲーム、魚雷船ゲーム等のシンプルなゲームは、それで十分楽しかった。あまりに精緻な二次元(もしくは仮想三次元)のゲームは、逆に子供の想像力とか工夫する力を奪っているように思うのは、考え過ぎだろうか。昔のおもちゃは、結構すぐに壊れた。所詮、「おもちゃ」なのである。しかし、こうした華奢な作りであったがゆえに、自分でちょっと分解してみたり、うまく動かないレバーを直してみたりしたものであった。少しプラスティックの部品が欠けても、「厚紙挟めば、ここは大丈夫」なんて、適当に直すことは日常茶飯事だった。
子供のおもちゃの根幹は3次元なのだということに、任天堂は気づいてWiiを出したのではないだろうか。任天堂は、TVゲームを世に出す前には、光線が当たるとライオンの目が光り声をあげる電子銃や、ピンポン玉みたいな玉をバットで打つ「ウルトラマシン」というピッチングマシーンを売っていた。だから、TVゲームを手掛けていても、SONYやマイクロソフトとは違う感覚を持っているように感ずる。Wiiは、画面上の「2次元の世界」をベースとしながらも体を動かす要素を組み入れることで、遊びの持つ本来的な感覚を取り戻そうとしたのかもしれない。ただ、それでもコンピューターゲームの世界に「壊れたから、ちょっと修理する」という要素までは取り込めなかったのは事実だ。

話を過去に戻そう。宮前からのお決まりのコース。次に現れるのは宝屋だ。ここの前には、フードスタンドがあった。アメリカンドックやソフトクリーム、甘栗などを売っていて、いつも甘い香りが漂っていた。「ミックス1つ!」女の子がソフトクリームを買っている。『・・・ああ、チョコとバニラが混じっているのがミックスっていうんだな・・・』。せいぜい駄菓子屋で「三色トリノ」か「ホームランバー」を買うくらいの男どもには関係のない代物だ。「あんな、『当たり』のついてないアイスなんてロマンがないよな。」なんて、負け惜しみともつかない言い訳を本気で考えていた。
ところで、当時、宝屋で売っていたアメリカンドックのことを「ホットドック」とみんな言っていた。宝屋の「ホットドック」は、魚肉ソーセージを丸い箸のような棒に挿して、周りにホットケーキミックスのような衣をつけて油で揚げたものだった。本当はパンにソーセージを挟んだものを「ホットドック」と言うのだと聞いたとき、ちょっと衝撃的だったように覚えている。あれをホットドックと言っていたのは秩父だけなのだろうか。

本町の交差点を右に曲がる。このコースでは宝屋の店内には入らない。宝屋には、子供が見て楽しい品は売っていなかった。だから、普通は素通りする。宝屋の反対側には、食料品を売るヨコカワがあった。おばさんが、大きな洗剤を自転車の荷台にくくりつけている。当時の洗剤は大きかったし、重かった。ザブとか、全温度チアーなんてのが主流だったと思うが、「アタック」が出たときは、本当にこんなので汚れが落ちるのかと思ったほど当時の洗剤は大きかった。買い物を終えてお店を出てくるおばさんたちの袋は、今のような白いポリ袋ではなく、茶色い紙袋だ。袋にはヨコカワのマークが描かれている。
ヨコカワでは買物額に応じて、グリーンスタンプがもらえた。「スーパー」(昔は、ベルクは「主婦の店」という名前だったが、秩父では誰もそうは呼ばずに何故か「スーパー」と呼んでいた)は、ブルーチップがもらえた。どちらも切手を一回り小さくしたような紙切れなのだが、これを「ブック」と呼ばれる台紙に貼って集める。その「ブック」の冊数で、カタログに掲載された品物と交換できた。カタログにはおもちゃもあったので、グリーンスタンプを台紙に貼るお手伝いをして、親とおもちゃに換える交渉をした。

次の目的地は宝屋から狭い路地に入ったところにある「宮野前科学」だ。
宮野前科学は、昭和の男の子にとって欠かせない存在のお店であった。店頭には竹ヒゴを組んで作るゴム動力の飛行機の袋が並んでいる。小学生の低学年のうちは、近くのお兄さんが作った飛行機を見せてもらって、絶対に大きくなったら自分も作ると心に誓う。
小学校4年生くらいになると、近くのお兄さんに手伝ってもらったりして、飛行機作りをスタートさせる。飛行機セットの袋に入っているのは、まっすぐな竹ヒゴとか、組み立てたあとに翼に張る紙とか、竹ヒゴをどのくらい曲げるのかを示した設計図の類など、およそ飛行機の原型をとどめないものばかりだった。最初に飛行機のキットを買ったときは、自分もちょっと大きくなったかなと言うくらいの感想を持つが、袋を開けた瞬間、如何にその後の作業が大変かを知り、絶望感を味わう。
竹ヒゴを曲げるのには、火を使わなくてはならない。火に近づけすぎると竹ヒゴが焦げたり燃えたりする。本当に慎重に作業を進める。それでも、なかなか設計図どおりにヒゴは曲がってくれない。無理に曲げればヒゴは折れる。だから最後は見切り発車で、適当に曲がったヒゴで不恰好な飛行機を組み立てる。それでも、ゴム動力で回るプロペラは偉大な揚力を生み出し、不恰好な飛行機は飛んでくれることが多かった。
飛行機の製作にしても、昔は小学生が火を使ったりカッターを使ったり、今では考えられないような「危ない」ことをやっていた。そういえば、昔は文房具屋に行くと「ボンナイフ」という剃刀の刃を入れた折りたたみ式の簡易な「ナイフ」を売っていた。正確な値段は覚えていないが、30円くらいだっただろうか。いつも筆箱の中に入れてあって、少し鉛筆が丸くなると、それで芯を削ったりしていた。今の学校にボンナイフのような刃物を持っていく子供はいないだろうから、時代も変わったのだろう。逆に、いつごろまで、子供たちは「ボンナイフ」を持って学校に行っていたのだろうか、気になるところである。
宮野前科学の店内には、いつも小学生の男の子がたくさん居た。昔の宮野前科学には、色々な電子部品が置いてあった。電池ボックス、モーター、ギヤ、それに板切れやタイヤを買って、自分で簡単な自動車を製作して、夏休みの自由研究にする子供もかなり居た。自動車のギヤには、「高速ギア」と「強力ギア」があって、どちらが良いかなど、真剣に議論した覚えがある。作りあげた自動車は、結構速く動いて、なかなか楽しかった。豆電球なども売っていたので、電池ボックスに豆電球をつないで、ライトつきの車にする子供も居た。
水中モーターもここで売っていた。板切れを買って船の模型を作り、船の下に水中モーターをつけると、結構格好良かった。だが、作った船を浮かばせて遊べる場所は以外に少なかったので、案外作っただけで終わったケースも多かったのではないだろうか。
また宮野前には試験管やビーカーなども売っていた。だから、ちょっとした理科の実験系の自由研究をする子供も宮野前に来ていた。さすがに、自由研究で薬品まで使ってやるような物をする子供は少なかったと思うので、理科実験器具の需要がそんなにあったとは思えない。
むしろ、理科系の需要は「昆虫採集」の方が大きかったのではないだろうか。昆虫採集といって思い出すのは、「昆虫採集セット」だ。昆虫採集セットには、赤い液体、緑の液体、注射器と虫を入れる丸い筒状の透明なプラスティックの蓋付きケース、値段によっては虫眼鏡やピンセット、切れ味の悪いメスなどもついていた。取った昆虫を標本にするのに、注射器で付属の「液体」を昆虫に注射する。赤い液体が虫を殺す薬で緑が防腐剤だとか、いや、その逆だとか、この2本の液体の「違い」と「使い方」は子供の間で議論が分かれた。何でこんな事が議論になるのかといえば、セットには取扱説明書がついていなかったからである(マニュアル重視の今の時代では考えられないことだ)。結局よくわからないので、両方の液体を適当に使うことが多かった。しかし、実際はどちらもメタノールか何かを薄めたもので、液体の内容に差は無いと大人から聞いた覚えがある。
セットについている虫を入れるケースも中途半端な大きさだ。蝶もトンボも入れたら羽を傷めてしまう。せいぜい、ハエかアリくらいしか入らない。これも、取扱説明書がないので使い道が良くわからず、放っておかれる存在だった。切れ味の悪いメスは、砥石を親から借りてきて、砥いでみる子供もいたが、所詮子供のおもちゃの延長のようなセットであるし、そんなので抜群な切れ味など出るはずはなかった。
今から考えると、何とも中途半端なセットなのだが、何故か持っている男子が多いグッズであった。夏休み中にトンボを捕まえて、昆虫採集セットの注射器で、薬品を注射する。赤とんぼやシオカラトンボくらいは、それで標本にできたが、オニヤンマは生命力が強く、そんな注射くらいでは元気であった。仕方ないので、キンチョールをかけたりするのだが、それなら昆虫採集セットは要らないよなと子供ながらに少し思ったりした。
カブト虫やクワガタ虫はなかなか採集できないし、捕まえれば飼育したいので夏休み中に死なない限りは標本にしなかったが、中にはきちんと標本にして持ってくる子も居た。標本の箱は、カルピスのお中元セットが適当だった。昔のカルピスは瓶入りだったので、箱も大きかった。それを上手に工作して標本台を作り、虫ピンで虫を刺して、きれいに並べていく。出来上がったら、箱の上にサランラップをかけて完成させる。やはり、トンボやセミだけの標本では貧弱で、カミキリ虫やカブト虫、クワガタ虫が入った標本が立派であった。

宮野前科学の店内を少しぶらぶらする。模型屋は革進館からちょっと坂を下ったところにもあるし、電子部品は釜の上の隣でも売っていたけれど、宮野前が何となく好きだった。電子工作にするか、やっぱり昆虫採集にするか。あれこれ考えて結局決められず夏休みの午後は過ぎていった・・・。

人から聞いたところでは、今の宮野前科学には、昔あったような電池ボックスや車を作る部品は置かれていないらしい。昔は国内の零細企業がこうした部品を作っていたが、今は作る会社がなくなってしまったのだという。昆虫採集セットも置いていない。大体子供が注射器を持って遊んでいる事自体が危ないということなのだろう。PL法など、色々な法律や規制も整備されてきた。物を作る事や販売する事に対する責任が徐々にクローズアップされ、小さな会社が子供向けのちょっとした商品を企画することは明らかなリスクとなった。今の世の中は安全になったのだと思う。しかしその反面、「危なっかしい面白さ」は減った。

結局世の中は、ゼロサムなのだ。何かを得れば、何かを失う。安全を取ればリスクは減る。リスクを減らせば、面白みは減る。すべてを得ることは難しい。その取捨選択をどのように進めるべきなのか。どんな企業も、どんな地域も生き残るために、そこで知恵を絞る。高齢化が進展し、街が空洞化する現在の秩父でもそれは同じである。昭和の賑やかな秩父を体感している大人たちは、今こそ真剣に過去と現在を比較し、更に20年後、30年後を見通して、この地で何を得ていくのか、代わりに何を失うのかを議論すべきなのだろう。街の中心部の空き家が増えている。高齢化が単純に進み、若者がこの地を離れ続ければ、10年後には更に深刻な問題となる。空き家と高齢者の住む家しかない街並みは、維持することは不可能だ。
しかし、過去の秩父を議論しようと思って、昭和の秩父の写真をネットで調べても余り出てこない。今後の議論の土台を作るためには、それこそ、漫画や絵で昭和40年代、50年代の秩父を再現してみる必要があるのかもしれない。行政がこうした取り組みを行えば、30-40年前と今の秩父の差が明確になると同時に、同じタイムスケールで今後発生するであろう事象も想定可能となるため、市民の危機感は高まるのではないだろうか。いずれにしても、これから10年の取組がこの地に残された最後のチャンスだろう。これは、小学生の夏休みの宿題とは比較にならない重大な課題である。
nice!(0) 
共通テーマ:地域

nice! 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。