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街の盛衰を左右するもの~中村町からの考察 [地域]

中村町には、ベルク公園橋モールというショッピングモールがある。先日、このショッピングモールで、食品メーカーがカレーの試食会を開催していた。カレーの列には、高齢者の姿が目立つ。この街に若者が少なくなっていることは、こうしたイベントでもうかがい知れる。公園橋モールのあった場所は、昔は秩父蚕糸という製糸工場があった。20年前、この巨大な敷地に建てられた工場で働いていた方々は、社員食堂で同じようにカレーを食べていたのだろうかと、試食会を眺めながら考えていた。
秩父の歴史と養蚕は切っても切れない関係にある。秩父夜祭も絹織物の市に関係しているし、歴史で学ぶ秩父事件も生糸価格の暴落を嚆矢として発生したものだ。秩父蚕糸は、秩父の養蚕農家から繭を集荷し、それを生糸にする工場だった。「製糸」というのは繭から糸を作ることをいう。綿や羊毛から糸を作るのは紡績という。だから、秩父蚕糸は製糸工場ということになる。秩父蚕糸は埼玉県で最後に残った製糸工場だったが、平成8年に操業を停止した。これだけの広い敷地に建てられた大工場だったのだから、ピーク時には相当の人が働いていたのだろう。工場から秩父の中心部に向かう坂道には、小さな商店街が形成され、こじんまりとはしていたが相応の賑わいを見せていた。
秩父蚕糸の正門から坂道を上がったすぐのところには、雑貨と駄菓子を商う店があった。そのすぐ上には家具屋、パーマ屋と並んでいた。民家や会社をはさんで床屋、ガソリンスタンド、向かいに煙草屋と酒屋。道を挟んで公会堂があり、向かいには豆腐屋、自転車屋、八百屋、パーマ屋と続いた。パーマ屋の向かいに歯医者があった時代もあった。民家を挟んで反対側には八百屋、少し上には駄菓子屋、旅館、煙草屋と牛乳屋、割烹に自転車屋と続いた。これらの殆どが姿を消した。一つの工場が消え、そこに勤める人の流れが消え、そして養蚕業から製糸業という産業の流れとそこから生み出されたお金が消えた。街がなくなるのも当たり前という気がする。
文化庁からユネスコの無形文化遺産登録について発表があり、「秩父祭の屋台行事と神楽」は登録が見送られることとなったという。無形文化遺産保護条約締約国から選出された24の国で構成する「政府間委員会」に登録を勧告する補助機関が、「日本から提案された秩父祭は、すでに登録されている京都祇園山鉾などと、どう違うのかさらに情報提供をすること」が必要と判断したとの事だった。
秩父夜祭は、絹織物を売る市とともに発展していった側面がある。そのルーツである養蚕業は秩父からほとんど消え、市内の桑畑もどんどん消滅している。昭和の時代には、市内には多くの桑畑があった。昔は季節になると小学校でも子どもがどこからか蚕を持ってきて、1匹2匹の蚕を教室で育てたりしていた。子どもたちは登校の道すがら桑畑から桑の葉を摘んで持ってきて蚕にあげていた。そんなことも今では難しいのだろう。養蚕という第一次産業と第二次産業の架け橋であった製糸工場もこの地から消え、秩父に残るのは織物産業だけといっても過言で無い状況となった。秩父夜祭は、養蚕から織物に至る伝統的な地場産業が創り上げた華であった。しかし、この華は、既にそのルーツ(根)をなくし、生花のような存在になりつつある。「祇園祭りとどこが違うのか」と問う政府間委員会の補助機関に答えたい。秩父夜祭を支えてきた伝統産業はもはやこの地で祭りを支えるだけの力をもてなくなってきている。単に祭祀にとどまることなく、この地に根付いた養蚕業の歴史をきちんと整理保存し、必要に応じて産業の保護まで行わなければ、この祭り自体が本当に「遺産」になりかねないギリギリの状態なのだと。そこが、京都と根本的に違うところなのだと秩父市は強力に訴える必要があるのだろう。
明治維新以降、資源のない日本は桑と蚕で外貨を稼いだ。秩父はその拠点の一つであり、富は豪華絢爛な祭りに昇華した。セメント工場、製糸工場といった大きな工場が次々とこの地から消え、物を作る拠点が無くなってきている。働く場所が無い若者はこの地を離れ、高齢化が進んでいる。第二次産業の衰退は、この地ばかりの問題ではない。しかし、産業の無い場所に人は集まらず、結果として街も発展できない。中村町の街の盛衰の歴史は秩父全体の街の盛衰の歴史でもある。

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