SSブログ

花の木小学校 [地域]

 過去の記憶をたどると、鮮明な部分とそうでもない部分があることに気づく。市内の小学校に関する記憶については、寧ろ後者に属する。記憶が鮮明でない部分が多い。そういえば、30年ほど前まで花の木小学校は木造校舎であった。
 花の木小学校(通称「花小」)は秩父市内の上町、中町、本町等々、秩父夜祭で山車をもつ町内の子供が多く通う小学校であり、市内でも「都会」の部類の小学校の一つである。「花の木小」というネーミングが特異であるのは、他の中心部の小学校が「第一小」、「南小」「西小」であることからもあきらかである。もし、「花小」を方角であらわすならば、むしろ「西」であり、「西小」は寧ろ「北」なのではと思うこともある。また、西小を中心とすれば、花小は南、南小は東となる。花小は、もともと「秩父第二小学校」という名称であったが、どうも「第二」だといつも二番目のようでよろしくないという意見が出て、改称が企画されたと聞いている。そこでいくつかの案が出されたようであるが、小学校のあるあたりが「花の木」と呼称されていたことを受けて、花の木小学校としたとのことであった。そういう意味で行くと、近所にある花の木幼稚園も似たような理由でその名になっているのかもしれない。しかし、「第二」が如何なものかという話については、創設以来「第二」を呼称する近所の「秩父第二中学」の立場はどうなるのかと、その話を聞いたときは思ったものである。
 経緯はどうあれ、花の木小学校は他の小学校とは違う、やや独特なネーミングを獲得したことは間違いない。外部の人が客観的に見ても、小学校のネーミングとして「花の木」は洒落ている。ここにも、秩父の人のネーミングの絶妙さの片鱗を伺い知ることが出来る。
 花の木小学校は、30年ほど前までは第一校舎から第五校舎までの五棟の木造校舎と、付帯の給食室等を備える大木造建築群であった。昭和40年代半ばから、50年代半ばは、日本人が急速に豊かになっていく時代でもあり、花小も大きく変わっていった。たとえば、給食の脱脂粉乳は瓶入りの「秩父牛乳」に変わり、ストーブは灯油ストーブになった。こうした変化の中で、巨大木造建築群はチョコレート色の鉄筋コンクリート造り3階建ての建物へと変わった。
 当時の第一校舎は、正門正面に位置し、職員室などと6年生の教室があった。もっとも古いとされていたのが第一校舎から校庭に向かって左側に建つ第二校舎であり、ここには2年生の教室があった。その右側には、3年生の第三校舎があった。第四校舎は、第三校舎の奥、いわば校庭にもっとも近い位置にあったが、第三校舎と第四校舎の間には給食室があった。第五校舎は、第四校舎のとなりにあり、この建物が木造群の中では比較的新しい建物と言われていた。入学式を終えた1年生は、体育館から渡り廊下を歩いて、第五校舎に入る。第五校舎の1階は、1年生の教室だった。この小学校の木造群が巨大だった理由の一つは、2階建ての教室が第一校舎と第五校舎だけだったことにもある。第五校舎の二階は5年生の教室であった。5年生は、1年生の面倒を見ることを想定しており、特に掃除の時間には、5年生が2階から降りてきて1年生の部屋を掃除した。巨大木造群のトイレは、当然水洗化などしていない。第五校舎の下駄箱を左に行くと、別棟のトイレがあった。こういう形にしないと、特に夏などは臭いが教室に入ってきてしまうからであろう。 校舎間の移動には、渡り廊下を利用した。第一校舎から渡り廊下を出た右側には、用務員室があった。これだけ広い木造建築のメンテナンスは相当大変であったに違いない。
 前述のとおり、秩父の冬は寒い。木造建築の校舎には、サッシなんて使っていない。窓には薄っぺらい窓ガラスがはめてあるだけであり、強い風が吹くと、教室の中まで風が入ってくる。今の花小では考えられない環境の下、子供たちは勉強していた。「木造」は建物だけではない。椅子も、机も全て木で出来ていた。机は長い年月を経て子供達が彫刻刀などで削った落書きがところどころに刻みこまれ、それこそ下敷きを忘れると配られた藁半紙に穴があくようであった(そういえば、テストは藁半紙、ガリ版印刷の時代でもあった)。低学年の机は横に二人がけで使用し、机上に蓋がついていた。この蓋を開けると、勉強道具やら細かいものが入れられるようになっていた。また、隣の人との間に小さな引き出しが付いていて、鉛筆などが入れられるようになっていた。
 給食は、まだまだ米国の食料政策の影響が残っていた時代であり、「パン・マーガリン・牛乳+おかず」と言うのが定番であった。たまにソフト麺もあったが、ご飯は皆無であった。「おかず」には、ひじきの炒り煮やら、カレーやら色々あったが、たまに鯨の肉のオーロラ煮というのが出た。当時、鯨は安価であり格好の給食食材であったのだ。今では考えられない話である。アルミニウムの丸いお皿は、パンを載せる大きいくぼみと、おかずを載せるやや小さいくぼみ、デザートを載せるみかん大のくぼみの3つで構成されていた。「パン」は、特に言及がなければ「コッペパン」であった。食パンの時には「食パン」と献立表に載った。たまに冷凍みかんがデザートに出て、一つの楽しみになっていた。
 放課後は、いったん家に帰った後、また校庭に来て遊ぶ子供が多かったし、学校も校庭を開放していた。花小の校庭はものすごく広い。都内の小学校の子供に校庭を見せると、その広さに驚きの表情を見せる。そこで子供たちは、ソフトボールなんかをやって楽しんでいた。校庭を出たところには、東京ストア(一度確か火事になった。その後、はなぶきストアと改称したが、現在はない。)というお店があって、そこでお菓子を買う子供も居た。よく校庭の隅にお菓子のゴミが散乱し、朝礼で先生方にごみの問題を注意されたのを思い出す。
 そんな、花小も時代の波を受けて巨大木造群を壊して新しい校舎にすることが決まった。建築は、学校の授業を行いながら進められたので、確か3年ほどかかった。チョコレート色の鉄筋コンクリートの建物は、木造建築群と区別する意味で「新校舎」と呼称された。その新校舎も築30年にもなるのかと感慨にふけるところもある。
 一時児童数が千人を超えた花の木小学校も、市内の人口高齢化、少子化の影響を受けて児童数が激減している。子供の数が減れば、どうしても子供同士で刺激しあう機会も減るように思う。花小独自の活性化策はないものかと、また素人の浅知恵を絞ってみた。やはり「花の木小学校」という名称は珍しいのではないだろうか。インターネットで見てみると、三重県に「花之木小学校」があるほか、葛飾区と愛知県に「花の木小学校」があるくらいしか見当たらない。近いところで、葛飾区の花の木小学校と交流会でも開いてみてはどうだろうか。ミューズパークが秩父市の経営となっている現状であれば、移動教室の宿泊施設としてミューズパークを使ってもらい、「花の木小学校」同士の交流をはかる。葛飾区と秩父市の比較の研究発表を企画したり、ミューズパークの音楽堂を使った音楽祭も面白い。広い校庭を利用した対抗体育祭なども学校の活性化に寄与するのではないだろうか。 両校の子供たちが交流委員会をつくり、イベントを企画し、実行すると言うのも、これからの世代に求められるプレゼンテーション能力の養成にも役立つ。また、こうした機会を経て都会の秩父ファンを増やすことは、観光活性化にも有効かもしれない。
もちろん、このようなことを行うのにはいつものことで、お金も要るし行政のサポートが必要だ。また、何故花小だけという問題は、行政の立場からは当然起こる整理課題であり、そこについても納得できる説明が要ることは確かである。しかし、それらを解決してやってみても面白いのではと、責任のない第三者は思ってしまう。
 

共通テーマ:地域

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。