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巨人軍選手のサイン会~秩父 矢尾百貨店 [観光]

お台場のデックス東京ビーチに台場一丁目商店街と言うところがあり、レトロな品揃えで人気を博している。その中のゲームセンターに、ボーリングゲームがあった。アメリカ製の機械で、ソフトボール大の玉を転がすと、レーンの奥にあるピンがなぎ倒され、ベル音とともに得点のカウンターがあがっていく。ああ、あれと同じゲーム機が30年ほど前の矢尾にあったなと、懐かしい気持ちになった。子供の投げたボールがゴロゴロとピンに転がっていく様子を眺めているうちに、昔の矢尾の光景がよみがえってきた。
矢尾百貨店は、創業260年の老舗である。もともとは、近江商人が当地に定住し商いをはじめたといわれており、滋賀県に縁のある方も多いと聞く。現在の建物は何度か増築されているが、ベースとなるのは昭和40年代の半ばに出来た建物で、時期的にはキンカ堂A館開業とあまり変わらなかったように記憶している。位置的に言うと、西武秩父の駅から歩いてくると左奥方向、藤村書店に面するあたりの建物が一番古く、エスカレーターは上りのみ、エレベーターを備えた屋上付きの3階建てであった。その後昭和50年代後半に5階まで増床。秩父初となる下りのエスカレーターもつけられた。
秩父の住民にとって、矢尾は特別な存在である。同じものを贈るにしても、矢尾の包みに入っていると、秩父のおばさんは「やだ、矢尾で買ってきたん?わるいねー。」という反応となる。矢尾は高級であり秩父流に言えば「矢尾はものがいい。」ということになっている。さしづめ、東京で言えば三越・高島屋の包みに見られる反応が秩父では矢尾に見られるといってよい。そのくらいの信頼が矢尾にはある。
矢尾には、ダーバンのような百貨店ブランドが当然入っており、秩父の中ではもっとも高級な品揃えとなっている。秩父の人は気に入った服が無ければ最後に矢尾に行く。矢尾でも気に入ったものが無ければ、秩父にはもう自分が求めるものはないというくらいのラストリゾート感を矢尾には持っている。秩父の人にとって、矢尾はそのくらい特別なデパートなのである。
しかし、埼玉県は地方百貨店がいまだに息づいている特殊な土地である。飯能で創業し、県内に多くの店舗を持つ「丸広」、熊谷の老舗「八木橋」そして、人口7万人あまりの小都市で絶大な信頼感を誇る「矢尾」。秩父に観光に訪れた方は、是非この「矢尾」に立ち寄ってみてもらいたいと思う。昔、中核都市であれば、ちょっとあったようなその街の顔であった百貨店の姿が今でも残っている。地方百貨店独特の品揃えや雰囲気は、三越や高島屋とは一線を画すものであり、十分観光気分を味わえる。昭和の時代は当たり前であった、百貨店の屋上の遊園地もいまだに健在である。当然、レストランも入っている。昔ながらの「デパートで買い物をして、レストランで食事をし、屋上で遊ぶ」という、昭和の幸せな家族の日曜日の過ごし方が今でも残っている。そういえば、昔はここのレストランは、森永のレストランであった。子供のころ、森永レストランに出かけるというだけで、嬉しくて仕方が無かったものである。
矢尾が現在も秩父の人たちの支持を集めている理由は、百貨店としてのクオリティーを維持しつつ堅実な経営続けてきたことにあるのではないだろうか。ある意味、派手さは無いが、絶対的な安心感がある。そんなところが秩父の風土とあっていたのだろうと思う。それでも矢尾は、秩父初のハンバーガー店「ウインピー」を導入するなど、しっかりとした基盤の中で新たな挑戦を行ってきた。それが260年の歴史を支える力となっているのだろう。
 そういえば、昔ベスト電器が入っていた場所に3Fから移って入った「藤村書店」は、前述の熊谷市のデパート「八木橋」の目の前に本店がある。同じ地方百貨店の老舗「矢尾」に藤村書店が入っているのは、なんとも面白い取り合わせだと思ってしまう。藤村書店本店は熊谷高校の生徒の通学路にあたるため学習参考書の品揃えが豊富という、ちょっと異質な書店であり、こういう書店を導入してくるあたりに矢尾のセンスのよさを感じてしまう。
 矢尾は、昭和40年代後半から50年代にかけては、歌手のサイン会やヒーローショー、野球選手のサイン会などを頻繁に催していた。それだけ、秩父に子供も多く集客力が期待できたからだろう。ただし、野球選手のサイン会はロッテの選手が多く、今から考えれば、恐らく食品メーカーとのタイアップでやっていたのではないかという感じもする(矢尾の関係者に聞いたわけではないので、確証はない)。
 そんな中、たった一度だけ、巨人のレギュラー選手が矢尾でサイン会を行った。昭和50年代前半であったろうか。まだ、矢尾が3階建て+屋上だった時代、二人の選手が同時に矢尾にやってきた。ひとりは、現在のヤクルトの監督である高田繁氏(当時は、外野から長嶋引退後のサードにコンバートされ、華麗な守備を見せていた)、もう一人は当時捕手であり、高田繁氏のあとの巨人の選手会長を勤めた吉田孝司氏であった。当時、プロ野球は絶大なる人気があった。また、所沢に西武ライオンズが創設される前ということもあり、テレビ中継が毎日行われていた巨人を応援する子供は秩父でも大変多かった。当時の秩父の子供は誰もが巨人の野球帽をかぶっていたといっても過言ではない。本当は、黒にオレンジのYGのマークが入るのが巨人の野球帽であるが、なぜか黄色の野球帽にYGワッペンだけ付いているものなども売られており、何でもYGのマークがついていればカッコイイ、そんな時代であった。
サイン会当日。一刻も早く矢尾の屋上に行き、サインをゲットしたい。そんな思いで、子供達は友達同士で誘い合わせて矢尾に向かった。催し物会場では、野球関係の展示が行われ、確か高田氏が当時受賞したダイヤモンドグラブ賞の「グローブ」のモニュメントなども展示されていた。でも、子供達にはそんなものを見ている余裕は無い。階段を駆け上る子供、寿司詰めのエレベーターに無理やり乗り込もうとする子供で、矢尾の店内はものすごい混雑となっていた。あとにも先にも、あれほどたくさんの子供が矢尾を訪れたことはない、それほど大量の子供が矢尾に集まっていた。確か、サインしてもらう色紙をもらうのに、数百円の募金か何かをした記憶がある。あまりはっきり覚えていないが、すぐにその色紙はなくなり、壇上に上り直接サインをしてもらえない子供達が屋上プレイランドにあふれかえっていた。
高田氏と吉田氏が会場を去ったあと、司会のおじさんが「高田選手と吉田選手はお帰りになりましたが、実はもう少しサインをしてくれています。サインをもらえなかったひとは、今からくじ引きをしますので、壇上に一列に上がってください」とアナウンスをし、会場から大歓声が上がった。しかし、所詮用意された色紙には限りがあり、あとになってみれば、小学校のクラスでサイン会後の抽選含めてを色紙をもらえた子供はほんの数人だったように記憶している。
「来年、矢尾には王がくるらしい。」高田選手と吉田選手のサイン会のあと、秩父の子供達は誰もが確信をもって、こんな噂話をしていた。「ホームラン王」王貞治氏が、秩父の矢尾でサイン会をする。人気絶頂の巨人軍のレギュラー選手が一度に二人もサイン会に来たのだから、王選手も絶対にくる。誰もがその瞬間を夢見て、矢尾の広告のサイン会の予告を待っていた。
しかし、それ以降、他の球団の選手はサイン会に来ても、王選手どころか巨人軍の選手のサイン会が矢尾を含めて秩父市内の百貨店やスーパーで開催されることは無かった。屋上催事というものと、販促の結びつきが昭和50年代後半から微妙に変わってきた、そんな時代の流れもあったと思うし、西武ライオンズの創設など、秩父市内が巨人一辺倒でなくなってきたことなども微妙に影響していたのかもしれない。また、店内が小学生くらいの子供であふれかえっても販促に繋がるわけではなく、適度な集客や、ヒーローショーのように幼児期の子供が親と来店する仕組みのほうが百貨店としても企画しやすかったのは事実なのではないだろうか。そういった意味で恐らく、客観的に見て費用対効果の点で巨人軍選手を呼ぶことはあまりプラスではなかったのかもしれないと個人的には推測している。
そうはいっても、昭和のプロ野球全盛期に長嶋監督時代の巨人軍のスター選手2人を同時に呼んでこれるだけの力を、この山間の小都市の老舗百貨店が持っていたことは、客観的に見ても驚愕に値するといってよい。今ではあまり語られなくなった、この話は秩父の記憶から消してはいけないと思っている。

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