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宮前の閉店 [地域]

時習堂が夏に閉店した。しかし、この店の呼称については、ある一定の年齢より上の人にとっては、「宮前」のほうが心地よかったりする。ここでは、敢えて「宮前」と記載するこの老舗は、秩父の文化を100年以上背負ってきた。宮前のすべての歴史を一個人が振り返ることはできないが、それでも記憶の限り振り返り、記録しておくことは必要なことではないかと思う。
宮前書店は、1883年に開店した。130年も前の出来事であるという単純な数字での重みのほかに、1884年の「秩父事件」の前年に開店していたという歴史的な重みについても、感じ入るところがある。初代社長の宮前藤十郎氏は、1873年に開校し、秩父事件と同年の1884年にフランスからの寄付を受けて校舎を建築した「大宮学校」の学務委員を務めたほか、秩父鉄道の敷設にも尽力した地元の有力者である。宮前氏が書店をこの山間の地に開店した背景には、地元の有力者として文化の発展に寄与するという側面ももちろんあったと思うが、それにも増して、当時の秩父に書籍の「需要」があったという点には改めて注目せざるをえない。
明治も始まってまだ16年。夏目漱石が「吾輩は猫である」を世に出す20年も前の、ほんの一部の知識階級のみが書籍を手にする時代に宮前書店は開店した。本は重いものだ。だから、小学生は教科書をランドセルで背負って持ち歩く。明治初期の、まだ交通手段も未発達の時代。重い書籍の輸送手段は限られる。それでも、山々を越えてこの地に本を運び、店を開いたのである。明朝体の活字が登場したのが明治5年。開店当初は、まだ木版印刷の和綴じの本も店先に並んでいたのではないだろううか。改めて、この山間の地で、「書籍」を「販売」することが、「商売」として成立したという点に秩父の奥深さを感ぜざるを得ない。学制が敷かれてまだ10年余り、全国的な視点に立てば識字率もそれほど高いとはいえまい。もちろん、大宮学校開校に伴う教科書需要等、それなりの商売の基礎はあったと思われるが、書店を開店させるからには、「文字が読める、また読む余裕のある」相応の知識人がいなければ成り立たない。
「自由民権運動」は、板垣退助率いる自由党が中心となって行った運動であるが、初期の自由党員は富裕層中心で構成されていたことは、数々の歴史書から明らかなことである(いわゆる「秩父困民党」と「自由党」とのつながり、もしくは隔たりについては、各種の書物で論じられており、ここでは本題ではないため言及しない。)。秩父において、自由民権運動が展開された背景には、生糸の輸出を介して横浜との間に出来上がった「シルクロード」を通じて、生糸の輸出先であるフランスの自由思想がダイレクトにこの山間の地にもたらされたことにあるのではないだろうか。もちろん、それは単純に伝聞として「聞いたことがある」というレベルでなく、「学ぶ」というレベルで深くこの地に浸透したからこそ、「秩父事件」も、従来の「一揆」等と全く違うレベルで評価される存在となっているのだろう。いずれにしても秩父の旺盛な知識欲が明治の初期という驚くべき早い時期での書店の開店に結びついたことは想像に難くない。
宮前は、秩父の文化を担っていた。学校で言えば、「体育と家庭科」以外の教科で必要なものは宮前で揃ったと言っても過言ではないだろう。昔は教科書も扱っていたので、たまに教科書を無くした同級生などは、宮前に教科書を注文していた。その時、教科書というのは切りのいい単価ではなくて、たしか1円単位の端数がついていたのでびっくりした覚えがある。かつて宮前は、地元の小学生から高校生まで放課後や休日に訪れる第二の学校のような存在であった。夏休みの読書感想文。さて、何を読もうかと宮前に行く。シーズンになると、推薦図書が平積みになっていて、どの本が良いかアドバイスをいただける時期もあった。本を買ったら、2階に行って、原稿用紙を買う。夏の暑い日の午後、昭和の時代の子供たちはこうやって学校の宿題にかこつけて涼しい「宮前」で「避暑」をしたのである。正月になれば、書初めのための半紙や墨汁を買いに。秋の写生のシーズンには絵具や画用紙を買いに。宮前は、いつでも子供たちの要望に確実に応えた。
昭和も50年代に入ると、様々な新しい文具が登場した。今までチューブや、プラスティックのボトルに入っていた糊は、スティックタイプの固型糊や水糊に変わった。ボールペンも、グリップにラバーが巻かれた書きやすいタイプのものが登場し、ミリペンや暗記ペンの類も店先に並んだ。新しいもの好きの子供たちは、宮前でそうした商品を目にして、親にせがんで買ってもらった。シャープペンシルも、当時はまだまだ高級品だった。子供たちが手にする一番最初のシャープペンシルは、今のように100円で買えるようなものではなかった。安くても500円。ガラスのケースに1本ずつ並べられている存在だった。当時の500円である。まだ、500円札が流通し、小さい子のお年玉袋にはそれが入っていたりした時代だ。子供にとっては、「ワンコイン」などという手軽な金額ではなかった。ガラスのケースに陳列されたシャープペンシルは、キラキラと輝いていた。それを初めて買った時のうれしさを覚えている人も多いのではないだろうか。シャープペンシルの芯には、金色のメッキがしてある「ゴールド」といわれるものが人気だった。「ゴールド」の芯の入っているケースも綺麗で、芯はとても高級な品物のように感じたものだ。金色の芯がシャープペンシルから出てくると、少しカッコイイ感じがした。TVゲームも普及していない時代。子供たちにとって、文具もまた「遊び道具」だった。紙のカバーに数字が書いてあり、サイコロの代りになる6角消しゴムなどは、あからさまなほうで、カードを閉じる丸いリングを8つつなげて、様々な形に変化させて遊ぶ「おもちゃ」を作ったり、プラスティックのクリップを変形させて、蚤のようにジャンプさせるおもちゃを作ってみたり。子供たちは、身近な文房具から遊び道具を次々考案していった。
子供が成長する「区切り」でも、宮前が登場する。例えば、中学生になって、帽章やクラスバッチを買うのは、宮前だった。これを宮前で買うことで、「中学生になった」ことを実感したのだった。初めて買ったレコードが、「宮前」だったという人も多いに違いない。レコードの針、レコードの埃を取るスプレー。昔はそんなものも宮前で買っていた。高校生になって、親が万年筆を子供に買い与えたり、親せきのおじさんからもらったりするのも、昭和50年代の懐かしい光景のように思う。初めて手にする14金の万年筆。今まで、宮前のガラスケースの中でしかお目にかかったことがない代物が自分の手の中にある。一歩大人になったと、実感する一瞬であった。昔は、2階への階段を上がったあたりから、時計が陳列されている時代もあった。初めての腕時計を宮前で買ってもらった人も、昭和世代では珍しくはないだろう。
宮前は、あらゆる世代の人々を柔軟に受け入れる存在であった。子供は、子供なりに、子供が成長していく過程ではそれに合わせて、まるで親が子供を見守るかのようにさまざまな形でこのお店との関わりが続く。幼稚園に行く前の子供が読む絵本も、難関大学の受験に必要とされるような高度な参考書も、当たり前のようにおいてある。極めつけは岩波文庫や岩波新書の在庫だろう。商売として、これらの在庫はそれほど寄与したとは思えない。しかし、宮前の気品は、こうした硬派の文庫や新書をしっかり並べているところではなかっただろうか。これは、明治の開店以来、秩父の文化を担うという意気込みを持ち続けた宮前のプライドでもあったと思う。
宮前は、書籍や文具以外でも様々な形で秩父の文化を担った。ショーケースに陳列された数々の楽器。ピアノやオルガン、エレクトーン。音楽、美術の専門的な品々も、宮前に行けばあった。また、音楽教室の展開など、ハード・ソフトが一体となった文化の育成を目指した点も見逃してはいけない。かなり専門的な品物でも、「宮前に行けばあるだんべえ」という感覚が、秩父の人々の中にあったことは間違いない。この要求にこたえるためには、相応の在庫を準備しなければならないが、宮前はそれに対応した。昭和50年代から60年代にかけては、放課後に宮前に行くと店頭にぎっしりと自転車が並んでいた。小学生から高校生まで、宮前は秩父の放課後を支える存在であった。余りにも混みすぎて自転車を店頭に置くことができず、刀屋との間の路地に置いたり、坂の下の車の駐車場に置くこともあった。近年では想像もつかない光景だが、秩父の高齢化、少子化がこの店舗の存続に影響を与えたことは、当時のこの状況を振り返ってみても間違いないであろう。
時代の変化は、創業130年の老舗を閉店に導いた。レコードはCDに変わり、CDはネット配信に変わった。音楽を購入するのに、店舗は必要なくなった。かつて、LPレコードは「絵画」にもなった。音楽を聴かずとも、ジャケットを部屋に飾るだけでよかった。レコード店に行く楽しみの幾ばくかは、ジャケットを見にいくところにもあった。CDの登場は音の美しさと引き換えに、こうした楽しみを奪った。ネット配信では、「ジャケット」というもの自体が消えた。この過程で、レコードや楽器と書籍が半々だった1階は、書籍が売り場の大半を占めるようになった。
書籍の買い方も変わった。書店に行かなくても、通販で購入すれば、早ければ翌日には送料無料で書籍が届く時代が来た。しかも、相当大きな書店でさえ、通常は在庫として置かないような専門書でも、ネットで購入すれば翌日に届く。この便利さは、日本人の書籍購入の方法を大きく変化させた。本屋で立ち読みして、本屋の親父に「はたき」で追われるなんて光景は、1970年代のマンガの世界であり、21世紀では、立ち読みを目的に、暇つぶしに本屋に行くこと自体がなくなっているように感じる。
文房具にしてもそうだ。昔は、前述のシャープペンシルのように、物によっては高価なものもあった。もちろん、今も高級品もあるのだが、今の我々の生活には、もっと安くてそこそこの品質のものがあふれてしまった。同じようなものなら、100円ショップに行けば安く手に入る。機能も大して変わらない。消費者は、経済に対して合理的な行動をとる。これを止めることは無理な話だ。
それでも、宮前はよかった。色とりどりのペンやノートを美しく陳列し、文具のもつ魅力を十分に引き出していた。ちょっと高いけど、でも買っていくか。そう思わせる商品の配置。老舗ならではの風格を、文具売り場は放っていた。
「宮前」は、「Miyamae」を経て「時習堂」に名前を変えた。そして、この夏、「時習堂」は閉店した。音楽教室は継続しているが、このお店のコンテンツは終わりを告げた。取扱い商品である書籍、文具、音楽の購買形態が激しく変化する中、老舗の閉店はやむを得なかったとみるのが自然だろう。少子高齢化だけの問題ではない。何かが大きく変化しない限り、今後当地ではこのスタイルの店舗を運営することは難しい。いや、このスタイルの店舗は、当地だけでなく日本全国どこでも難しいのだと思う。秩父の文化を支え、歴史を作った時習堂の閉店は、一般の店舗の閉店とは一線を画す重みがある。時習堂で売っていたものを他で買うことはできる。しかし、時習堂、いや「宮前」のように、商品を売りながら複合的に文化を提供するお店は、もう現れないだろう。寂しい限りだが、ネット社会の進展は、山間の老舗の在り方さえも変えてしまった。

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