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秩父夜祭 その3 六日町 [観光]

秩父の地元民は、あまり「秩父夜祭」という言葉を使わない。対外的には通りがいいので使うが、地元の人同士だと、単に「冬祭り」とか、「お祭り」と呼称している。いわば、平安時代に「はな」と言えば桜であったように、秩父の人にとって「まつり」と言えば「秩父夜祭」をさすと言ってよい。差し詰め、俳句で言えば秩父の人にとって「祭り」は冬の季語ということになろう。
秩父の「冬祭り」が終わって1週間経った。秩父の冬祭りは長い。「夜祭」と呼称される3日の大祭をはさみ、1日から6日までが祭りの期間である。「ならし」と呼ばれる太鼓の練習が始まる11月の下旬や屋台笠鉾の組み立ての期間を入れれば、祭りの期間は相当長いと言ってよいだろう。
一時は、完全に消滅した2日の「宵祭り(「よいまち」というひともいる)」は、復活し定着した。宵祭りは、地元の人がゆっくり楽しむ位置づけの祭りであり、露天も原則でないことになっているらしい。3日の本番ではとても近づけないような近さでじっくりと屋台を楽しむことができる。更に、宵祭りでは、本番当日では絶対見られない雪洞や提灯をつけた屋台の「すれ違い」を目の当たりにすることができる。これは、宵祭りが「大通り」と呼ばれる旧国道で行われるため、方向転換した屋台は戻ってきて「すれ違い」をせざるを得なくなるためだ。秩父の山車は関東屈指の大きさである。一方の「大通り」は、田舎の二車線道路であり、すれ違いは結構ギリギリの間隔で行われ相当緊張感がある。囃し手も相手の町会に負けじと声を張り上げ、すれ違いの瞬間はまさに1年に一度知るもののみぞ味わうことができる至極の瞬間なのである。秩父夜祭の祭りの雰囲気を味わいたい観光客の方は、ぜひ3日にお越しいただくことをお勧めするが、秩父の山車をじっくりと見たいというかたは、団子坂とはまた違った緊張感が楽しめる宵祭りを検討することもお勧めしたい。ただし、宵祭りはあくまで前夜祭であり、中近や下郷といった市外中心部からやや遠い地区の笠鉾は参加していない。笠鉾を見たい方は、3日にお越しになるしかない。
秩父の人は「昔は夜通し祭りをやった」と述懐する。確かに、40年ほど前は仕掛け花火は1時間に1回しかやらなかったので、夜の2時になってもまだ花火をやっていたし、午前4時でもまだ山車を引き回していた。今は、花火は10時には終わるし、山車の引き回しも以前に比べれば早い時間に終わるようになった。観光客への配慮とも言われている。昔は、そんなわけで秩父の中心部の小学校は3日、4日連休であった。未明まで花火見物して翌日子供が授業など受けられないからだ。当時12月4日は、市内の子供にとって、祭りの余韻を楽しむ日であった。市内のあちこちには、露天が十分出ており、射的やら輪投げをやったり、おもちゃ屋ではあまり売っていないような露天のちょっとかわったおもちゃを買って楽しんだりした。また、秩父公園には見世物小屋やお化け屋敷、サーカスのテントが並んでいて、こうしたところにも足を運んだ。子供にとって年に1度、秩父が遊園地になる・・・そんな時代があった。
12月5日は印象の薄い日だが、6日は「六日町」と呼ばれて冬祭りの最後を楽しむ日となっていた。昭和40年代までは、六日町を楽しむ風習が残っており、確か学校も半日とかそういう状況だった(あまり定かでない)。「六日町」は女性のお祭りと言われていた。お祭りの間、女性は遠方からの来客でてんてこ舞いになる。お客が帰り、一息ついて楽しむ祭りが六日町と言われていた。昭和30年代には山車も引き回されたと聞いている。町は歩行者天国になり相応の賑わいを見せた。町に出かけた女性は、台所用品や日用品の露天で正月に備えて必要なものを買う習慣があったと言う。植木のようなものを売っている露天商もあった。露天商にとっても、秩父の冬祭りは年内最後の営業ともいえるものであり、相応の値引きに応えたとのことである。こうした長期の祭りが行えたのは、秩父地方が養蚕農家と機屋を中心とする産業構造であり、経済体として内部完結していたからだと考えられる。事実、秩父セメントやキャノン電子に勤める人が多くなった昭和50年代からは秩父の祭りは3日に集約されるようになり、六日町は事実上途絶えた。工場は、秩父市内の経済事情だけで稼動を大幅に変えることはできないのである。
六日町の伝統が途絶えて久しいが、「女性のための大バーゲンセール」を宣伝し、六日町復活を企画すれば、観光の起爆剤になるかもしれないと妄想を抱いている。ただし、今のままでは復活は厳しそうではあるが。




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